生命を内包する自然の写真を撮り続け、
現地の人びととの交流を慈しんで
多くの素敵な体験を言葉で紡ぎ、
世の中へと発表しました。
アラスカに住むことを決めてから、
遂には家を建てて、定住し、
人びとからは「ミチオ」と呼ばれ、
親しまれていた、日本人でした。
43歳という若さで不慮の死を遂げてから
20年以上が過ぎた今日にも、
星野さんの存在は際立って生き続け、
より一層の輝きを増している風に感じます。
6/6まで、星野さんの故郷、
千葉県市川市 真間の、
市川市芳澤ガーデンギャラリー で
「没後20年 星野道夫の旅」が催されていまして、私もこの週末に 観てきました。
会場の中は、迫り来る一瞬を切り取った大自然がいっぱい。
南アラスカの無人島(ラウンド島)で
セイウチが群れになって昼寝する写真は、
今回初めて観たのでしたが、
藻類の写真 の真上に飾られていて、
一瞬 しじみ の大群かと思えて、
クスッとなりました。
人びとが去り無人島となって100年以上も経っているトーテムポールの写真は、
苔むして何か魔力を放っているかのよう。
人間の魂を体内に抱えたグリズリーが
彫られていました。
アサバスカンインディアンの
112歳という古老の写真にも、
何回見てもドキリとさせられます。
市川市に生まれ育った星野さんは、
アラスカに特別な縁があったのではなく、
大学生の時、古本屋で1枚のアラスカの写真を見て 衝撃をうけて、
現地の村長さんに「2、3ヶ月滞在させてもらえませんか? どんな仕事でもします。」
という手紙を送ったのだそうです。
半年後、村長さんから本当に返事が来て、
そこから星野道夫ヒストリーが
始まってゆくのですね。(45年ほど昔のこと)
写真や文章には、
ただ訪れただけではとても語れないような、
心通わせたからこその体験が散りばめられています。
あらゆる生命に対する温かいまなざしや、
自然、人々、動物、神話などへの
超越した好奇心と、
現地の人々との
豊かな交わりがベースにあったことに感動します。
叶うものなら、一度、
星野道夫ファンとしては、
道夫さんを知る方に
その辺りの秘密を探ってみたい位です。
以下、星野道夫さんの言葉より少し
拝借します。。↓
生きる者と死す者。有機物と無機物。
その境とは一体どこにあるのだろう。
目の前のスープをすすれば、
極北の森に生きたムースの身体は、
ゆっくりと僕の中にしみこんでゆく。
その時、僕はムースになる。
そして、ムースは人になる。
エスキモーのクジラ漁。
人々の自然との関わりを
垣間見ることができた。
殺すクジラに対する神聖な気持ち
解体の前の祈り、
そして最後に残された頭骨を海に返す儀式‥
私たちが生きてゆくといくことは、
誰を犠牲にして
自分自身が生きのびるのかという、
終わりのない日々の選択である。
生命体の本質とは、
他者を殺して食べることにあるからだ。
近代社会の中では見えにくいその約束を、
最もストレートに
受けとめなければならないのが狩猟民である。
約束とは、言いかえれば血の匂いであり、
悲しみという言葉に置きかえてもよい。
そして、悲しみの中から生まれたものが
古代からの神話なのだろう。
僕たちが誰であるのかを、
常に意識させてくれた。
アラスカの自然は、その感覚を、
とてもわかりやすく
教え続けてくれたように思う。
‥ ‥ ‥
こうして文字にすると、またまた沁みてきます。
もし人生を変えてしまう程の一冊を
あげるとすると、まず私は、
星野道夫さんの本を‥
無性に、優しさが湧いてきて、
体中から毒素が
出尽くしていくかのような感覚になってきます。
‥ ‥
余談ですが、会場から出るとき、
偶然作品展の企画者で
奥様の直子さんを おめもじ!しました。
道夫さんをうしなった時は
息子の翔馬さんは 1歳か2歳だったでしょうか‥
物腰が柔らかい 直子さんのお姿をみて、
女手一つで育てたことを想像すると、
ただもう尊敬するばかりです。
昨日は一瞬でしたが
プレゼントのような時間になりました。
長文ダラダラとありがとうございました。
いつの日にか、
遠いアラスカを旅してみたいです。